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何が悔しいのか~水俣病研究交流集会に関する西日本新聞(1/14)について

水俣病・不知火訴訟弁護士 和解内容に悔しさも 研究交流集会 参加者議論深める

1/13に第8回水俣病研究交流集会に参加して、
「水俣病に時効・除斥なし~ノーモア・ミナマタ訴訟での時効除斥論の到達」
という演題で報告してきました。

報告の主題は、演題の通り、
水俣病に関して加害者らの消滅時効・除斥期間の主張は認められないし、
ノーモア訴訟やその後の被害者の闘いの到達の結果、認められないことがより明確になった、
というものでした。

ところが、なぜか西日本新聞で、主題とはおよそ離れた、質疑応答での私の言葉尻を捉えた報道がなされています。
西日本新聞はまったく理解していないようですが、ノーモアの闘いは、水俣病被害者の闘いの歴史の中で、間違いなく大きな前進を勝ち取ったのです。
ノーモアの闘いが「すべての水俣病被害者救済」を掲げ、他の被害者の闘いと相まって6万人もの被害者を励まし立ち上がらせたこと、95年政治解決までの地域・年代の壁を突破したこと、それにより「さらにどこまで救済範囲を広げるべきなのか」という新たな問題を提起したこと、は紛れもない事実です。他の被害者の方々の闘いももちろん大事な闘いであることはよく承知していますが、救済範囲の拡大の点でノーモア訴訟ほどの成果を上げた闘いはあまりないのではないでしょうか。
もちろん、ノーモアの成果も過去の被害者の闘いの成果の上に得られた成果であることも十分承知していますし、ですから、全ての被害者のたたかいの歴史的な到達と成果でもあります。そして、今後、取り残された被害者の闘いが、ノーモアが提起しながらも解決し残した課題をさらに前進させたときには、ノーモアの闘いの歴史的価値はさらに高まることでしょう。

要するに、ノーモアの到達点は、歴史の中での一つの到達点に過ぎないのであって、「完璧でない」のは当たり前ですし、その意味では「悔しい思い」もあるわけですが、それは新たな容易でない課題に果敢にチャレンジしたからこそだと私は考えています。

原田正純先生は「歴史を動かすのは志を持った少数者」とおっしゃったそうです。
私は「最初は少数者からスタートしたとしても多数者にならない限り本当の意味で歴史を動かすことはできない」と考えます。そして、私のノーモアの闘いの大いなる前進と到達と限界に対する一番の「思い」はそこにあります。

(というわけで、西日本新聞は何も理解していない。というか、何か意図があってあえて曲解したのか?)
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